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大阪地方裁判所 平成4年(わ)800号 判決

主文

被告人を禁錮一年二月に処する。

この裁判確定の日から三年間刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

本件公訴事実中、道路交通法違反の点については、被告人は無罪。

理由

(犯罪事実)

被告人は、かねてより自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和六〇年ころから、年に一回ないし二、三回程度の割合で、一時的な意識障害に陥る発作に見舞われ続けており、しかも、自動車運転中に右発作が起きたこともあったので、そのような心身の状態で自動車を運転した場合、いつまた右発作に見舞われて正常な運転ができなくなるかも知れないことを十分認識していたのであるから、このような場合、自動車の運転を差し控えるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、右発作は起きないものと軽信して、平成四年三月三日午前一一時ころ、大阪市住之江区北加賀屋二丁目二番二八号付近において普通乗用自動車の運転を開始し、同市西成区方面に向けて運転を継続した過失により、同日午前一一時二五分ころ、同区岸里一丁目二番一五号先付近道路を西から東に向かい、時速約二〇キロメートルで右自動車を運転して進行中、突然てんかん病の発作が起きて、正常な意識を失ったまま自車を進行させたため、折から道路右側を自車と同一方向に向かいショッピングカーを引いて歩行していたA(当時六三歳)に自車前部を衝突させてボンネット上に跳ね上げた上、路上に転落させ、更に自車と同一方向に歩行していたB(当時二一歳)に自車右前部を衝突させて路上に転倒させ、よって、右Aに脳挫傷等の傷害を、右Bに加療約一〇日間を要する頭部外傷[1]型、右肘打撲の傷害をそれぞれ負わせた上、右Aを、右傷害により、翌三月四日午後〇時三二分ころ、同区南津守四丁目五番二〇号山本第三病院において死亡するに至らせた。

(証拠)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断及び予備的訴因を認定した理由)

第一  公訴事実第一(業務上過失致死傷)の主位的訴因及び公訴事実第二(道路交通法違反)について

一  本件公訴事実第一の主位的訴因の要旨は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、平成四年三月三日午前一一時二五分ころ、普通乗用自動車を運転し、大阪市西成区岸里一丁目二番一五号先付近路上を西から東に向かい、時速約二〇キロメートルで進行するにあたり、前方左右を注視し、道路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、左前方の歩行者に気を奪われ、自車進路直前の注視及びその安全確認を欠き、漫然前記速度で進行した過失により、折から道路右側を自車同一方向に向かいショッピングカーを引いて歩行していたA(当時六三歳)に自車前部を衝突させて自車ボンネット上に跳ね上げた上、路上に転落させ、続いて同一方向に歩行していたB(当時二一歳)に自車右前部を衝突させて路上に転倒させ、よって、前記Aに脳挫傷等の傷害を、前記Bに加療約一〇日間を要する頭部外傷[1]型、右肘打撲の傷害をそれぞれ負わせた上、前記Aを右傷害により、翌三月四日午後〇時三二分ころ、同区南津守四丁目五番二〇号山本第三病院において死亡するに至らせた。」というものであり、本件公訴事実第二の要旨は、「被告人は、前記日時場所において、前記のとおり交通事故を起こしたのに、直ちに自動車の運転を停止して負傷者を救護する等必要な措置を講じず、かつ、その事故発生の日時及び場所等法律の定める事項を、直ちに最寄りの警察署の警官に報告しなかった。」というものであるが、弁護人は、「被告人は、本件事故当時、てんかん病の複雑部分発作を起こして一時的に意識障害に陥り、責任能力を欠いていた。」旨主張しているので、以下検討する。

二  1 第二回公判調書中の証人Cの供述部分及び第三回公判調書中の証人Dの供述部分並びに実況見分調書(検察官請求証拠番号七、ただし、立会人の指示説明部分を除く。)によれば、本件車両は、本件各被害者に自車を衝突させた後も走行を継続し、左折を二度行った後、停止したことが認められ、このことからすれば、被告人は、本件事故当時、意識障害に陥っていなかったようにもみえる。

2 しかしながら、前記証拠によれば、(一)本件車両は、被害者らに衝突した後、左右にふらつくような不安定な状態で走行していたこと、(二)事件の目撃者C、Dらが右車両を追い掛けて行って、一旦停止した右車両の助手席側のドアを叩き、被告人に対し、車から降りるよう求めたところ、被告人は、ハンドルやチェンジレバーなどを動かしていたが、応答もせず、再び車両を発進させたので、異常な感じがしたこと、(三)本件車両が事故現場から更に進行して二度左折し、約三五〇メートル先の路上で停止した後、駆け付けたCらが、被告人に対し、「何で逃げるんや。」「自分のやったことが分かってないんか。」等と問いただしたところ、被告人は、悪酔いしているような青白い顔をして、「わしが何をやったんや。」と答えたが、その際の被告人の様子は、Dには、被告人がしらを切っているように見えたが、Cには、本当に何もやっていないように見えたことなど、本件事故当時、被告人が意識障害に陥っていたことを窺わせる諸事実も認められる。

3 そして、鑑定人齋藤正己作成の鑑定書(職権証拠番号四)及び証人齋藤正己の当公判廷における供述(以下、これらを単に「齋藤鑑定」と略記する。)によれば、被告人は、本件事故当時、てんかん病の複雑部分発作によって一時的な意識障害に陥り、人身事故に至った可能性が極めて大きいことが認められる。

また、齋藤鑑定によれば、本件のように、自動車運転中という覚せい度が高い状況で右のような発作が起きた場合、思考、判断、内省などの統合的な機能は障害されるが、自動的な機能は意識障害発作中においても遂行され得るので、本件車両が、本件各被害者に自車を衝突させた後も約三五〇メートル走行を継続し、左折を二度行っていることと、被告人が本件事故当時、てんかん病の複雑部分発作に見舞われていたこととは矛盾しない。

4 以上によれば、「被告人は、本件事故当時、てんかん病の複雑部分発作によって意識障害に陥り、事理の是非善悪を弁識する能力を欠如していたと認めざるを得ない。」とした前記齋藤鑑定は、これを是認することができ、被告人は、本件事故当時、心神喪失の状態に陥っていた可能性が極めて大きいと認められる。

(なお、被告人の捜査段階における各供述調書によれば、被告人は、捜査段階の当初においては、本件事故については記憶がない旨供述していたが、その後、次第に記憶を回復したとして、本件事故当時の状況について供述するに至っていることが認められるところ、前判示のとおり、被告人は、本件事故当時、てんかん病の複雑部分発作によって意識障害に陥っていた可能性が極めて大きいと認められることなどからすれば、齋藤鑑定も指摘するとおり、被告人の捜査段階における供述中、本件事故当時の状況について述べた部分は、被告人の記憶に基づくものではなく、警察官の示唆や目撃者の供述等に基づく誘導的な尋問に被告人が少しずつ合わせていくことによってなされたといわざるをえず、信用性を欠くものというべきである。)

第二  公訴事実第一(業務上過失致死傷)の予備的訴因について

一  弁護人は、公訴事実第一の予備的訴因について、「被告人は、自動車運転中の一時的な意識障害発作の発症及び本件事故の発生について、予見可能性を欠いており、自動車の運転を差し控える義務を負っていたとはいえず、無罪である。」旨主張しているので、以下検討する。

二  被告人の当公判廷における供述、第一回、第五回ないし第七回公判調書中の被告人の各供述部分、第七回公判調書中の証人Eの供述部分、E(検察官請求証拠番号二七)及びF(同五九)の各警察官調書、弁護士法二三条の二第二項に基づく照会に対する回答書三通(弁護人請求証拠番号一四、一七、二二)、長吉総合病院作成の診療録写(同一五)、医師G作成の回答書(同二三)、医師H作成の診断書(同二四)並びに齋藤鑑定によれば、次の各事実が認められる。

1 被告人は、本件事故の七、八年前である昭和六〇年ころから、年に一回ないし二、三回程度の頻度でてんかん病の複雑部分発作により、一時的な意識障害に陥るようになり、近くは平成三年六月ころ睡眠中に発症した後、本件事故に至っている。

右発作が起きるのは、夜間くつろいでいるときや睡眠中が多いが、本件事故より七、八年前ころ、昼間に自動車を運転中、信号待ちをしていて、信号が「進め。」に変わったのに、被告人の自動車が発進しなかったことから、後続のトラックの運転手が降車してきて、「何で動かへんのや。」と言ったので、意識障害に陥っていたことに気付いたことがあり、その際には警察官から被告人の妻にその旨連絡がなされたことがあったことや、また、本件事故の五、六年前に、下請け業者のもとに赴いた際に発症したこともあった。

被告人は、右意識障害が起きた際の状況について、妻Eから聞かされていたほか、比較的軽い障害が起きたときには、被告人自身もその認識があったので、その意識障害の原因は過労や睡眠不足、煙草の吸い過ぎであると思ってはいたものの、自動車運転中に意識障害に陥ることを懸念し、家業のナット販売業の従業員が辞めた平成三年九月ころまでは、商品の配達を従業員に任せ、通勤の時以外は極力自分で自動車を運転しないようにしていた。

2 被告人は、前記下請け業者のもとで発作を起こした直後に大阪府立病院で脳波等の検査を受けたが、その結果は、異状なしとのことであった。

また、被告人は、旋盤で手指を負傷して長吉総合病院に入院中の昭和六三年八月三一日に、約一〇分間意識もうろう状態に陥り、これを見ていた看護婦の連絡によりてんかん病発作の疑いが生じたことから、同年九月五日に脳波検査を受けた結果、間歇的異常脳波と判定され、経過観察が望ましかったのに、以後カルテ記載上は「訴えなく放置」とされており、結局てんかん病者であるとの診断は受けていない(なお、右検査に際して、被告人の家族から、被告人はそれまでに三度ほど突然意識をなくして倒れたことがある旨申告されている。)。

被告人は、右以降も、本件事故に至るまでの間、何度か前記発作により一時的な意識障害に陥っていたものであり、本件事故以前の最後の発作は、前記のとおり平成三年六月ころ睡眠中に発症したものであるが、そのような発作に見舞われ続けていたにもかかわらず、自動車運転の是非について、専門医に事の次第を打ち明けて診断を受けることはせず、また、治療も受けていなかった。

3 本件事故直後、被告人が、大阪市内の大橋医院において、H医師に対し、本件事故の状況の他、「約一〇年来、夜間就寝時にフーッと意識が遠のくようなことがあり、煙草の吸い過ぎや睡眠不足、過労気味の際にそのような症状を認めることがあり、脳外科でCT検査を受けたが異状は認められなかったと言われた。二、三年前より時々頚部を締め付けられるような感がある。」旨申告した上で受診したところ、「脳動脈硬化症」と診断され、前記発作については、「脳虚血性発作」と判断されて、漢方薬の投与を受けた。

その後、被告人は、当審において実施された鑑定人齋藤正己による精神鑑定において、初めて、前記発作が「てんかん病の複雑部分発作」であると判定された。

三  以上によれば、被告人は、なるほど本件事故以前にてんかん病者である旨の診断を受けたことはなく、当審において実施した精神鑑定によって、初めて自分がてんかん病者であることを明確に認識するに至ったものではあるが、既に説示したとおり、本件事故以前から年に一回ないし二、三回程度の頻度で一時的な意識障害に陥る発作が起きていたこと、発作は夜間くつろいでいるときや睡眠中に起こることが多かったとはいえ、回数こそ少ないものの、昼間に自動車運転中や仕事先に赴いた際に起きたこともあったこと、しかも、被告人は、右のような意識障害が起きた際の状況を妻などから知らされたり、自覚するなどして十分認識していたこと、そして、現に被告人は、前記長吉総合病院において脳波検査を受けた後も、自動車運転中に意識障害に陥ることを懸念して、従業員がいた時期には、商品の配達は従業員に任せ、通勤の時以外は極力自分で自動車を運転しないようにしていたことなどからすれば、たとえ専門医によっててんかん病の病名が判定されておらず、従ってその診断に基づき自動車の運転を差し控えるよう忠告されていなかったとしても、本件自動車運転開始時において、被告人が、自動車運転中に右の一時的な意識障害に陥る発作に見舞われうることを予見することは十分可能であったというべきである。

そして、自動車の運転が、人命にかかわる高度の危険を伴う業務であることにかんがみれば、自動車運転者に対しては、心身共に右危険に十分対処しうる状態にあることが法律上要求されている(道路交通法八八条等参照)のであるから、自動車の運転中意識障害に陥ることのありうることを予見することが可能であった被告人が、右予見に従って運転を差し控えるべき業務上の注意義務を負うこともまた当然である。

従って、弁護人の前記主張を採用することはできない。

第三  結論

以上により、公訴事実第一の主位的訴因については、被告人の行為は心神喪失者の行為として罪とならないが、右公訴事実の予備的訴因についてはその証明が十分であるから、これについて有罪の言渡をすることとし、公訴事実第二については、被告人の行為は心神喪失者の行為として罪とならないから、刑訴法三三六条前段により無罪の言渡をする。

(法令の適用)

罰条 各被害者に対する関係でいずれも刑法二一一条前段

科刑上一罪の処理 刑法五四条一項前段、一〇条(犯情の重い業務上過失致死罪の刑で処断)

刑種の選択 禁錮刑を選択

刑の執行猶予 刑法二五条一項

訴訟費用の負担 刑訴法一八一条一項本文

(量刑の理由)

本件は、事故発生の七、八年前から年に一回ないし二、三回程度の割合で一時的な意識障害に陥る発作を起こしていた被告人が、かかる発作が自動車運転中にも起こりうることを予見することができたのであるから、自動車の運転を差し控えなければならなかったにもかかわらず、睡眠時や夜くつろいでいるときしか発作が起きないものと軽信して運転を行ったところ、運転中にてんかん病の発作を起こして一時的な意識障害に陥り、歩行者一名を死亡させ、同一名に傷害を負わせたという事案である。

被告人は、前記認定のとおり、自身が自動車を運転することの危険性を認識していたにもかかわらず、敢えて運転をし、判示Aの一命を失わしめるという重大な結果を惹起したものであること、突如として被害に遭った右Aの無念さはもとより、長年同居していた一人娘を奪われた同女の母親の心情も察するに難くなく、その悲しみは未だ癒えていないこと、本件被害者両名には、事故の発生に関し落ち度があったとは認められないこと、被告人は、本件以前にも業務上過失傷害罪による罰金前科二犯があることなどに照らすと、被告人の刑事責任は重いと言うべきである。

もっとも、他方、被告人が本件犯行について深く反省していること、被告人と本件各被害者との間には既に示談が成立しており、死亡した右Aの遺族に対しては、保険金三〇〇〇万円が支払われていること、被告人は、本件事故後、頚椎後縦靱帯骨軟化症等のために手術を受けたが、退院した現在もなお手足にしびれが残る状態であり、健康状態が優れないことなど、被告人のために酌むべき事情も認められる。

そこで、以上の事情を総合考慮し、被告人に対しては、主文の刑を科した上、刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。

(裁判長裁判官 福島裕 裁判官 山嵜和信 裁判官 早川幸男)

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